ミュウツーの逆襲(旧版)について考察した話
1998年に公開された「劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」
そのリメイク版である「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」(2019年7月12日ロードショー)の予告映像が公開されました。
ひゅーっ!かっけぇー!!
非常に待ち遠しいですが、私もかつてミュウツーの逆襲を観に行って大泣きしたポケモントレーナーの一人として、何がそんなに心に響いたのか、内容を思い出しつつ考察したいと思います。
※ネタバレ含みますのでご注意下さい。
※解釈の助けとしてたまに他の作品の話をひっぱってきています。
超ざっくりあらすじ
※私なりの解釈が入っています。
・伝説のポケモン「ミュウ」の化石をもとに研究者がミュウツーを作り出す。
・わけもわからぬまま「最強のポケモンであれ!」と実験を繰り返される日々にミュウツーさんは超お怒り。
・ミュウツーは怒りと憎悪に任せて、人間への復讐を決行。研究所破壊、研究者達どーん。
・ミュウツーはポケモントレーナー数人を、バトル大会と称してとある城に招待する。
・ポケモンマスターを目指すトレーナーの一人:サトシも、仲間とともに招待されて、荒波超えて城へ到着。(ホストがまさかポケモンとは思ってない)
・トレーナー達が城に到着するやいなや、ミュウツーにむりやりポケモンを奪われる。
・ミュウツーは奪ったポケモンをもとにして、研究所の設備を利用してコピーを作成。
・ミュウツーさん「オリジナルよりコピーの方が強い!」
・オリジナルのポケモン達「コピーに負けて、自分の居場所を奪われるわけにはいかない!」
・オリジナル VS コピー のバトル勃発(ミュウツーはミュウとバトル)
・サトシは普段はポケモンバトルに明け暮れているけど、こんなバトルは間違っていると思う。
・サトシは、ミュウツーとミュウのバトルの間に割って入って、攻撃を受けて石になってしまう。
・オリジナルにとってもコピーにとっても、このバトルは「負けたら自分自身の存在価値を失う」ようなしんどい戦い。
・それを止めてくれたサトシが石になってしまった。「バトルに勝つことが存在意義である世界」を止めてくれたサトシが。悲しい。
・ポケモン達の流した涙がサトシに集まって、石から元にもどったよ。
・それを見ていたミュウツーは、「自分たちコピーポケモンもオリジナルポケモンも、(相手に勝つことで存在意義を示さなくても)今ここで生きている(生きていていい)生き物なのだ」と理解する。
・戦いをやめたミュウツーは、こんな日のことは憶えていない方がいいと考えてサトシ達の記憶を消して、去っていく。
ミュウツーは何がそんなにしんどいのか?
ミュウツーの苦悩、怒り、憎悪の要因のひとつもはもちろん、オリジナル(本物)に対して自分自身がコピー(偽物)だと言うことです。
(正確にはミュウツーはコピーでなく、化石の遺伝子から改良して作られた存在)
誰だって「お前はXXのコピーだ」言われたらしんどい。
ゲーム「刀剣乱舞」に「山姥切国広」というキャラがいますが、「山姥切」という刀を模して作られたのが「国広」で、彼は自分がオリジナルでないことにコンプレックスを持っており色々こじらせてしまっているそうです。
(ゲームをプレイしたことがないのであまり突っ込んだことは言えませんが)
自分の存在意義に対する疑問やコンプレックスは、コピーとされるキャラクターに共通する苦悩だと思います。
それともうひとつ。
ツイッターでちらっと呟いたんですが、「ミュウツーの苦悩って毒親に育てられたがゆえの愛着障害・アダルトチルドレン的なものだと思う。」です。
ミュウツーはその人格形成の時期において、愛情を持って育てられていない。
実験付けの日々は、子供に対する虐待のようなもの。
信じたり、頼ったりすることができる相手もいない。
家(研究所)は安心できる場所ではない。
しかも「最強である」自分以外は認めてもらえない。
無条件で自分を受け入れてくれる場所はない。
愛着障害及びアダルトチルドレンについては、検索すると専門家が説明しているサイトがいろいろ出てきます。
私は専門家ではなく、そういったサイトや本を読んで知識をかじっただけなので、詳しいことはそちらのサイトを見てもらえればと思います。
超ざっくり雑な説明をすると、
愛着障害は「愛情もって育てられなかったせいでいろいろこじらせちゃった」→ミュウツーの場合はそれが破壊的な行動に結びついている
アダルトチルドレンは「うまくいっていない家庭で育てられて、生き辛さをもったまま大人になっちゃった人」→ミュウツーの場合はヒーロー型:特定分野で活躍すること・評価されることを過剰に期待される(最強であることを強制され、それ以外の自分は認められない)
です。
ヒーロー型について少し分かりやすくすると、例えばですが親が子供に対して
「学校での成績が学年1位であるお前以外は認めない」
「かけっこで一番になれなければお前には価値がない」
という態度だと、子供は辛いということです。
ここまで極端でなくても、親からの過度な期待に辛い経験をしたことがある人は多いのではないでしょうか。
ミュウツーはすごい能力を持っている超常的な存在ですが、その内面はものすごく人間的なキャラクターだと思います。
現実に生きる人で自分が誰かのコピーであるという人はいないと思うので(いたらすごい)、ミュウツーのコピーとしての苦悩は、想像はできても共感することは難しいです。
ですが、親(もしくは親的存在)の過度な期待に苦しめられた経験を持つ人はたくさん居て、そういった人々はもしかしたらミュウツーの「最強の自分しか認められない」という気持ちに共感していたんじゃないかなと思います。
ミュウツーは、ただ人類に復讐するならコピーVSオリジナルのバトルなんか仕掛けないで、研究者達ドーンと同じように人類をどんどんドーンして破壊と殺戮の限りを尽くす選択肢もあったはずなのに、そうしてはいません。
ミュウツーは研究者達を憎んでいますが、それでもなお研究者達(親的存在)が強制した「最強であること」にしか自分の存在価値を見出せず、「最強であること」を証明するために本物に勝とうとすることしかできなかった。
せつない。
オリジナルポケモン達はなぜコピーと戦わなければならなかったか?
確か、コピーと全く戦っていなかったのってロケット団のニャースだけなんですよね。
ロケット団のニャースは、「むかし好きなニャース♀が居て、好かれようとして人間の言葉をしゃべれるようになったけど、ニャース♀から気持ち悪いって拒否されちゃった」という過去を持つキャラクター。
人間っぽくなれば「かっこいい」と言ってもらえると思ってがんばったら、全然そんなことはなかった。
人間になれたわけではないし、かといって一般的な「ニャース」からも外れてしまった。
でもそんなニャースは、辛くて悲しくて、自分って何?と悩んだけど、それを乗り越えて、ロケット団として頑張って行こう!と決めた子です。
「周囲の評価はどうであれ、これが自分なんだ」と自分を受け入れている。たぶん。
だからコピーと戦って、自分の存在意義を示すことに必死にならずにいられたのかなと思います。
映画を見た当時は分からなかったけど、まさかこれほどニャースが大人な存在だったとは(笑)。
少し話が前後してしまいましたが、オリジナルポケモン達の戦う理由は、「自分の存在意義を守る為に、コピーに自分よりコピーが優れていると証明されるわけにはいかない。自分の居場所を守らなければ」という気持ちです。
オカルトちっくな話として、ドッペルゲンガーは本物を殺して本物に成り代わる(だからドッペルゲンガーは死の前兆とされる)というものがあります。
(精神学的な話や生き霊という解釈はわきに置いてます)
自分にそっくりな存在(コピー)がいて、それが自分を殺しにきて、自分に成り代わって生活していこうとしている(しかも自分より優秀)・・・そんなん怖いわ!
そんな感じかと思います。
作中のキャラクター:ジョーイさんは、オリジナルとコピーのバトルをこう説明しています。
生き物は、同じ種類の生き物に、同じ縄張りを渡そうとはしません。
相手を追い出すまで戦います、それが生き物です。
少し話が逸れますが、ゲーム:テイルズオブジアビスの主題歌であるBUMP OF CHICKENの「カルマ」は、以下のような歌詞ではじまります。
ガラス玉ひとつ 落とされた
追いかけて もうひとつ落っこちた
ひとつ分の陽だまりに ひとつだけ残ってる
心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る
奪われない様に 守り続けてる
心臓が〜からの部分、コピーの方の気持ちと読み取れますが、オリジナル、コピーに共通する気持ちだと思います。
この歌自体、ひとつのストーリーとして成立していて、コピーがオリジナルの場所を奪った場合の話として面白いので、興味のある方はぜひ聞いて欲しいと思います。
サトシのピカチュウは、コピーピカチュウに叩かれても応戦しません。
これについては「なんでかなー?」と思っていたんですが、脚本を担当された首藤さんのコラムを読んで「なるほどな〜」に変わりました。
ですので、興味のある方は新作を見る前にぜひ読んでみてください。
こちらで読めます→WEBアニメスタイル_COLUMN
サトシの存在の何が救いだったか
サトシがミュウとミュウツーの戦いを止めようと割って入り、攻撃を受けて石になり、それを見たポケモン達が涙を流して、サトシは石からもとに戻ってめでたしめでたし。
なかなか象徴的で、難しいです。
まずサトシが石になってしまった理由ですが、こちらは先ほど紹介した首藤さんのコラムで謎が解けました。引用します。
ゲームであろうと競技であろうといままでバトルを肯定してきたサトシは、無意識でバトルを否定してしまった。
サトシの行動は矛盾している。だから動けない。しゃべれない。石になるしかない。
映画を見た当時は、ミュウ?ミュウツー?の攻撃つよいこわい、と思ってたのですが、こういうことだったんですね。
で、なぜポケモン達は涙を流したか。首藤さんはコラムで次のように述べています。
バトルに勝つことが価値観である世界を、本人が無意識であるにせよ変えてしまった存在なのである。
自己存在への答えを、潜在意識の中で「戦いを止めさせること」だと見つけて行動してしまった存在がサトシなのだ。
もちろん、サトシ本人は、それを分かってはいないだろうが……。
サトシのピカチュウは、「ポケモン」の世界に、そんなサトシにいてほしかったのだ。
黙って動かない石のままでいてほしくなかったのだ。
サトシは確かにポケモンマスターを目指すバトル少年ですが、たとえピカチュウがバトルで負けてしまっても、「ピカチュウ、弱いお前に価値はない」なんて言いません。
怪我をしていれば心配して、すぐにポケモンセンターに連れて行きます。
一緒に悔しがって、次は負けないぞ!とピカチュウと一緒に前を向きます。
サトシは、ピカチュウが負けてしまってもピカチュウのことが大好きです。
「バトルで勝つこと(コピーに勝つことorオリジナルに勝つこと)が存在意義である」という価値判断基準に支配された世界の中で、サトシは「負けたってお前が大好きだ!」と叫ぶ、別の価値判断基準の象徴なんじゃないかと思います。
(あくまで作中では、戦いを止めてくれた存在に留まるのかもしれませんが。。)
噛み砕くと、例えば親の期待に応えて学年トップの成績を取り続ける男の子がいて、学年トップじゃないと親にも教師にも認めてもらえないから頑張り続けてるけどしんどいな〜と思っているところへ友達が現れて「なんだよトップじゃなくていいじゃん。俺はお前と遊ぶの楽しいから好きだぜ」って新しい価値観が現れる感じでしょうか。
現実世界でも、他者から「あなたがあなたであるというだけで大好き」と価値を認めてもらうことは、とても嬉しいことです。
多くの場合は親がこの「他者」の役割を果たすかと思います。
ですが、親からそのメッセージを受け取れなかった人の場合は、友人や恋人、恩師等からそのメッセージを受け取ったとき、この上ない救いになると思います。
で、「どこかでだれかからお前は優秀じゃないと言われたって、私は私であるだけで存在価値があるもーん」という精神が育つ。この精神がある人はめちゃくちゃ強いと思います。無敵かよ。
さて、ポケモン達の涙でサトシは石から生身に戻りますが、これはなぜなのか。
サトシは矛盾した行動をしたから石になるしかなったそうですが、それならば、ポケモン達の涙は「あなたの行動は矛盾してない。ぼくたちは救われた」というメッセージだったのではないでしょうか。
だから石化が解けた。
そういうことなのかなーと思います。
終盤のシーン、抽象的・象徴的すぎる。
子供向け映画の第1作で、よくこんなに重いテーマを扱って、抽象的に描いたなー、責めてるなーとびっくりです。
(象徴的じゃなければむしろ一層大人向けになるし、深読みしようとしなければ、この戦いしんどい→サトシが止めてくれた→ありがとう!と、シンプルなんですが(でもめっちゃ頭いいであろうミュウツーが納得するには、それだけじゃ足りないかな))
ミュウツー、もしサトシの制止がなくて、この戦いに勝っていたとしたら、「最強であること」にとらわれ続けていたんじゃないかな。
ミュウツーは強い存在なので、それでもやっていけたかも知らないけど。
でもやっぱり辛い気はします。
最強なのは誰か?
ここまで考察してみて、改めて旧作ポスターのキャッチコピーを確認すると「最強のポケモンは誰だ?!」です。
EVOLUTIONの公式サイトトップでは「最強とは何かーー」。
別に作中ではバトルに決着がついているわけじゃない。
ミュウの方が強いとも、ミュウツーの方が強いとも明言されていない。
じゃあ誰が最強なのかというと、
「どこかでだれかに私を否定されても関係ない。
優秀であろうと優秀でなかろうとこれが私。
だって私には、私であるというだけで価値がある。」
この精神をもった人(ポケモン)が最強なんじゃないでしょーか。
バトルでは勝てるかもしれないけど、勝てるだけ。
だってこんな人(ポケモン)、へし折れる気がしないもん。